<ぶらり京都>
<菅原道真が北野天満宮に祀られた理由>
道真は幼い頃より学問に励み当時最年少で国家試験に合格します。
中国の歴史や漢字を教える先生にもなり、
宇多天皇に重宝され、天皇の秘書にまで出世します。
しかし宇多天皇から醍醐天皇に代わると当時、
左大臣だった藤原時平によって大宰府へ左遷されてしまいます。
これが901年 昌泰の変(しょうたいのへん)です。
藤原時平から見れば、あまりに優秀な道真は政敵だったのです。
左遷された道真は京に戻る事が出来ず、
そのわずか2年後に太宰府で亡くなってしまいます。
そしてここから道真の祟りが始まるのです。
まず醍醐天皇の住む京都御所の「清涼殿」に雷が落ち側近が死亡し、
醍醐天皇もショックで体調を崩し崩御してしまいます。
本来、雷様は天神様でした。
都では不本意に太宰府に左遷された「道真の祟りが雷となった」
とうわさされるようになりました。
そしていつしか「道真=天神様」となっていくのです。
後醍醐天皇が崩御した後も、
道真を左遷した藤原時平も39歳という若さで死亡します。
その他にも次々と関係者が不遇の死を遂げることになります。
こうして道真の祟りに間違いないという恐怖がさらに強まっていくのです。
この祟りをどうすれば抑えられるのかと考えた結果
創建されたのが北野天満宮だったのです。
没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈りました。
その後、現在地の北野に道真を祀る社殿が造営されることになったのです。
全国に1万2,000社も天満宮があるということは、
当時からどれだけの人々が道真の祟りを
恐れていたかがお分かりでしょうか。
このように道真の生前の真面目で誠実な人柄と晩年の不遇が伝説を生み、
天神さまと崇められるようになったのです。
これが平安時代から現代まで1,000年以上、
盛んな天神信仰へと展開した背景です。
※久しぶりにリフレッシュできました!
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北野天満宮(本殿) |
国宝・本殿は慶長12年(1607)に
豊臣秀頼が造営したもので
八棟造と称され絢爛豪華な桃山建築

三光門
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神使の牛像 |
<牛が神使となった理由>
道真の墓(太宰府天満宮)の場所を牛が決めた。
牛が座り込んで臥してしまった姿を
「臥牛」と言いますが、
この姿こそが境内にいる牛の姿なのです
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紅和魂梅 |
「東風吹かば 匂い起こせよ 梅の花
主なしとて 春を忘るな」
”飛梅伝説” が伝わる
本殿前のご神木「紅和魂梅」
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